楽器という定義のボーダーラインはどこにあるのだろうか?

 

「ニューヨーク・タイムス」のMichael Cooper氏の記事によれば、「アメリカ音楽を代表する1曲と言っても過言ではないある曲が、70年にもわたって誤って演奏されてきたと指摘されています。

 

Have We Been Playing Gershwin Wrong for 70 Years?|NewYorkTimes

 

それは、ジョージ・ガーシュウィンの交響詩「パリのアメリカ人」。

 

記事は、快活でジャズに影響されたこの交響詩が、1928年に公表された時点で明確な指定をされていなかったために、正しく再現されていない、というのです。

 

それはなにかというと、フレンチ・タクシー・ホーンの演奏。

 

この楽器、まばゆいパリという大都会(当時)を訪れたヤンキー、すなわち田舎者のアメリカ人が、その喧噪と燦めきに圧倒されるようすを描く場面で効果的に使われています。

ガーシュウィンは、この曲のためにわざわざパリからタクシーのホーン(クラクション)をアメリカに持ち込んで、楽団員に持たせたとされています。

 

問題となっているのは、このホーンの音程。

初演のピッチと異なるものが、その後延々と使用されているそうなのです。

 

ネットで調べられる範囲の「パリのアメリカ人」の楽譜を見てみると、確かにその他の楽器的なパートがあって、そのなかに“Taxi-Horn”とあるのですが、五線譜ではなく一線譜でしか記述がないようなのです。

 

この問題、音楽学的にどうやら問題となっているようで、ミシガン大学で準備されている上演会では、現在では標準とされるジーン・ケリー主演の1951年の映画「巴里のアメリカ人」や、クリストファー・ウィールドン振り付けで喝采を浴び週8回も上演されたというブロードウェイ版で演奏されていたものを使うようで、ガーシュウィン版とは呼べないものになってしまうと炎上しているようなのです。

記事では、この問題はこれにとどまらないとしています。

というのも、こうした楽器に起因する表現の違いの問題は、例えばエリック・サティのバレエ音楽「パラード」(1917年)で指定されたタイプライターの打鍵音と銃声、フレデリック・コンヴァースの「大衆車1000万台」(1927年)で指定されたT型フォードのクラクション音などにも波及することになるので、今後の効果音を使った楽曲でも無視できないことになるとしているわけです。

これが映像の世界では、時代考証とか美術陣などがトコトン調査したり、小道具として古い電話や生活用品をストックしてまでこだわろうとしていたりするわけですから、音楽界ではおざなりにしていいわけはないのです。

とはいえ、それってガーシュウィンがこだわってなかったから書き込んでないとも言えるので、なんか音楽の本質とは違うような気はするんですよね……。

最近、カワイのとてもコンディションのよいピアノの音を体験したり、ファツィオリのエピソードをたっぷりと聴いたりしていたので、楽曲や演奏とはまた別の、距離を保った楽器のポジショニングということも考えさせられたりしていたので、その時代の楽器(クラクション音)でもいいのではと思ったりもします。

ピアノの調律も、バッハやモーツァルトの時代とは変わっていますし。

実際に電子楽器は50年前といまではかなりサウンドが違っています。同じようなシミュレーションができても、“質感”みたいなものは解消できないと思うんですよね。

あのころのシンセサイザーといまでは消費電力が違ったりしているので、“力量”という物理的な違いが発生しているはずですから。

でも、おもしろい問題提起だと思います。