映画「セッション」の監督インタビューを読んでみると日本での宣伝の仕方がピント外れなんじゃないかと思えるのだが……

 

 

 

当サイトでも菊地成孔さんの記事を引用して俎上にあげてしまった映画「セッション」。

映画「セッション!」にはオチがなくて笑えないと教えてくれた菊地成孔さんに感謝しよう|富澤えいちのジャズブログ

 

アカデミー作品賞ノミネート作品なので無下に扱うこともできず、というコメントがテレビなどで聞こえる今日この頃。

 

公開直前になって、デイミアン・チャゼル監督のインタビューがネットに公開されるようになった。

 

 

ガジェット通信のインタビューでは、前置きとして「作品の基になった自身の体験」という紹介の仕方をしている。

 

チャゼル監督:フレッチャーのようなキャラクターを創ったのは、(生徒が)素晴らしい演奏者になるために、どこまでやっていいのかというジレンマに焦点を当てたかったんだ。そこを強調するために、もっと怖くて意地悪なキャラクターにしたんだよ。

 

この点がデフォルメされたミステリー、あるいはホラー映画に近い演出であったことをふまえた作品評が“正解”だったことがわかるのではないだろうか。

 

ラストに関しても「ジレンマの問いかけが観客に残るようなエンディングを目指していた」と語っていることから、ジャズはもちろん音楽にフォーカスしたものでもなく、成長物語にしたくなかったという意図がくみ取れる。

 

つまり、ジャズの視点で語ってはいけなかったということ。

 

 

 

VOGUEのインタビューの前置きでは「予想もつかない展開は、まるで総合格闘技を観ているような」と表現。

 

そのインタビュアーの感想に対してチャゼル監督は「まさにそれが狙いだったんだよ」と肯定している。

 

ジャズを道具に総合格闘技を表現したという方法論はあり得ないものではないが、使い方のマナーが悪かったというのが、「しこり」の原因になっているのではないだろうか。

 

もしくは、「音楽も他のスポーツ同様に過酷なものなんだよ」という彼の主張を素直に受け入れたくないという、PTSDのようなものと言ったらいいだろうか……。