「連載13[ジャズ事始め]なぜ上海は“ジャズの揺りかご”となったのか?」がヤマハWEB音遊人にアップされています!

富澤えいちの執筆担当記事の紹介です。

アジアのジャズ事情をひもとこうと始めた事始めシリーズ。

上海を中心に、もしかしたらジャズはこちらが中心だったのでは? というイメージが、だいぶ湧き上がってくるようになりました。

そういえば、欧州航路については、永松先生がベルリンオリンピックに行ったときの話を、左門町にあった「晴」(はる)という居酒屋で、船で2週間ぐらいかかるんだよ〜などと聞いていたことを思い出しました。

そのときは、オリンピックの選手団だから特別仕立ての船なのかと思っていましたが、調べてみると定期航路もあって、日本近海フェリーとまではいかないけれど、けっこう気軽な船旅だったんじゃないかと想像できますね。

永松先生(永松 英吉/ながまつ ひできち、男性、1914年8月4日〜1992年11月18日)は、日本の元アマチュアボクシング選手。ベルリンオリンピックライト級日本代表。明治大学卒業。)には警察学校(とおっしゃってました)で教えた帰りに「晴」に立ち寄っておられて、よくおごっていただきました。

もうあまり外出する機会がなくて、サンデー毎日なんだよ〜、というのが口癖で、株を保有しているからと某メーカーのビールしか頼まれないことを覚えています。

しばらく飲んで、良い心持ちになったころに、奥様の菅原都々子さんが迎えに来るというのもお約束。先生のお宅は「晴」のすぐ裏手で、私も肩をお貸ししてお送りしたことがありました。

都々子さんのリサイタルが新橋のヤクルトホールで開かれたときに、「晴」の常連が連なって観に行ったこともありました。

戻って来て「晴」で常連だけの打ち上げをやりましたっけ。都々子さんが顔を出してくれて、飲み物の手配をしていただいたことも覚えています。

「晴」は、文学座の稽古場が近かったので、関係者もよく集まっていました。江守徹さんの声の大きさには驚きましたけど。

このお店のマスターは、元々は四谷の新道通りを出て少し行ったところにあった「ぴったん」という店の方で、「晴」を開くときにアルバイト先に連絡をいただいて、学生だったころにアルバイト先の社長と飲みに行ったことがあります。

通うようになったのは、最初に訪れてから7〜8年後で、すでに結婚して、「晴」の近くに引っ越したので、思い出して行ってみたらほとんど常連みたいになったという感じでした。

「晴」のマスターには、閉店のときも挨拶ができず、アルバイト先というのは実はアルバイトではなかったとか、いろいろ思い出してくると感傷的になることばかりなので、このへんでやめておきましょう。