本書は…
国立国会図書館の34万冊以上の著作権切れの本のデジタル化を行なっているのが、近デジこと近代デジタルライブラリー。
最近、この近デジが日本出版者協議会の要望を受けて公開停止にした本があり、ネットで炎上していた。
それが…
ニュースではなく、『金沢の気骨 文化でまちづくり』という書籍の書評を嵐山光三郎さんが書いた文章だった。
前金沢市長 在職時に市内の目障りなラブホ買い取って緑地に (NEWS ポストセブン) |Yahoo!ニュース
著者の山出保氏は五期二〇年にわたって金沢市長を務めた。超がつくほどの反骨ガンコ市長で、国と対決して「補助金なんていらない」といったへそ曲りだ。 …
著者は前金沢市長。
兼六園や武家屋敷で知られる歴史都市に金沢21世紀美術館を作って、ルーブル美術館と合同企画展をやった。毎年、金沢JAZZ STREETを開催し、神社の境内で演奏会をする。市内にあったラブホテルが目ざわりなので、買いとって緑地にした。
数々のアイデアで金沢の街を活性化させた実績を綴ったもののようだ。
茶屋街の養成事業を助成する。料理職人塾、工芸工房を開設する。伝統工芸の金沢和傘の職人が一人だけになってしまうと、自ら「弟子入りしたい」といい出した。きわめつけは旧町名復活で、住所表示から消えてしまった11の旧町名を復活した。旧町名が復活すると、朝市がたち、清掃活動が活発になり、住人の連携が強まった。反対する人がいても信念はまげない。
反骨と反動は違う。某大阪市長は、結果を出さなければただの目立ちたがり屋だ。
山出氏もただのパフォーマンスだろうとか、業者からの見返りがあるなどといった批判を受けたことだろう。
だけど、本来は業者が菓子折りを持ってお礼にくるぐらいの効果があるアイデアを打ち出すぐらいでなければ、市長としての役に立っていないのではないか。
わかりやすい文章で、具体的な話があり、町おこしをしようとする人への貴重なテキストになります。
町おこしは、利権に加えて思惑や感情が入り乱れて、前に進めるのが難しいことを見聞きしている。
本来は、真っ先に考えなければならないはずの現地の人たちが、無関心だったり諦めムードに流されたりしている。でも、効果を直接実感できるだけに、アイデアが現実化すれば、手のひらを返したように発案者を賞賛するものだ。
手のひらを返してもらうまでのタイムラグをどう我慢して乗り越えていくのか。
アイデアだけの根性なしでは、きっと成し遂げられないのだろう(自省を含めて)。
人生訓の書として読んでみたいと思わせる内容だ。
著者は順天堂大学医学部教授で日本体育協会公認スポーツドクター。
ボクが日課に取り入れているセル・エクササイズを提唱しているのも著者だ。
著者は副交感神経をコントロールすることで体質が改善できるとして、その具体的な方法を本書でも伝授してくれる。
ストレッチや柔軟体操では身体の深部はほぐすことができないという著者の言葉には説得力がある。
こうしたちょっとした運動を習慣化できるといいのだが、活字の形ではなかなかそれが叶わない。
メディアミックスほど大げさなものでなくてもいいのだが、たとえばそれぞれのポーズに対応したYouTubeの動画などがあるといいのではと思ってしまう。
ボクがセル・エクササイズを習慣化できているのも、付属のDVDをデッキに放り込んだままにして、すぐに再生できるようにしているからだ。
なによりも、本をめくりながら運動するということは無理があり、DVDに合わせながらのほうが圧倒的に再現性が高い。
こちらは、毎日続けている(たまに抜けるけど)日記を、書こうと思い立ったきっかけの部分。
1)その日いちばん失敗したこと
2)その日いちばん感動したこと
3)明日の目標
それぞれについて短い文章でまとめるというものだ。
短い文章でいいと言っても、書くためにはそれなりの時間を費やす。1日をざっと振り返って、どれが「いちばん」だったかなぁと考えなければならないからだ。
著者は、その行動が寝る前に良い効果を与えるというのだ。
確かに、なんとなくモヤモヤとしたものを感じながら寝床につくことがなくなるため、とても寝入りがよくなるという実感がある。
1日をリセットして、明朝はスッキリと起きることができるというメリットは、かなり実用的なのではないかと思っている。
心のストレッチとも言うべきこの日記、お勧めできるものだ。
漫画「ブラックジャックによろしく」をネットで商用・非商用に関わらず無料でダウンロードできるようにした漫画家の佐藤秀峰氏が、その経過について書いた記事がありました。
実はボクもダウンロードして楽しませてもらったのですが、もちろんそれによって料金は発生せず、著者には1円も入っていません。一部のダウンロード・サイトでは広告を貼ったものも見かけられましたので、あるいは若干の収益が発生したのかもしれませんが、いずれにしても本人曰く「僕が報酬をいただくことはありません」ということです。
ところが、この波及効果によって、著者はかなりの収益をあげていました。
先月末までの半年間の電子書籍関連の著作ロイヤリティを合計した所、¥37,045,934円ありました。
実に月額650万円、単行本印税に換算すると80万部のヒットに匹敵するというのです。
後半では、集英社、小学館、講談社のビッグ・スリーの漫画単行本売上を示しながら、すでに限界点以下に思える日本の漫画界の実情をあぶり出し、著者による著者のための著作物の作り方に関する持論を展開しています。
とても興味深い。
日本のフリーミアムのシーンはなかなかそのカラクリを構築するまでに至らず、バーターないしはスポンサード、もしくはボランティアのような曖昧な形で進んでいるという印象が強かったのですが、実践者が数字を示しながら語るようすを目の当たりにすると、旧弊に囚われている場合ではないぞという気がまたぞろ首をもたげてきます。
幽霊の正体見たり枯れ尾花ーー。
なにごともその正体を見ることなく断じてはいけないということは、学校の先生が言いそうなことではあるけれど、社会に出れば「なるほど」と身に染みて理解できることが多い。
一方で、「投資」という言葉には表裏が常につきまとう。栄養と同じような意味で、未来の糧を得るために必要な行動を指すこともあれば、博打と同様にリスキーな行動の代名詞となったりもする。
そして「不動産」はと言えば、衣食住という生活に欠かせないアイテムの1つであり、資産に数えられることもあれば、負債に数えられることもあるという、これまたオモテ裏のある定義の難しい対象だ。
この3つのキーワードがタイトルに組み込まれた本書は、その3つの難しさを解き明かすための智慧を授けてくれる解説書である。
とはいえ、
数字と指標だらけでとっつきにくいという評の多かった前著『誰も書かなかった不動産投資の出口戦略・組合せ戦略』とは、一転、基本的な「考え方」にフォーカスを当て、パターン化した投資の特徴を理解していただくことを主眼においた」(11「最後に」より)
でも、簡単に語れないのにはわけがある。だからこそ、何億もの金が動いたりするだけの価値を与えられるのだから。
それだけの価値があるにも関わらず、無造作に扱われることも事実である。
著者は、その素人ゆえの無造作を排して、正しい資産運用をするための基礎的な部分でもいいから、持ちたいという気持ちをもったほうが身のためですよということを、親切にもお節介にも示してくれているのだ。
著者がどれだけ親切でお節介なのかは、もしかすると本書を読んだだけではわからないかもしれない。その肩書きには多くの資格を有していることが記されている。「肩書きで人間は評価できない」などと言うけれど、肩書きは努力の結果を示したものでもある。資格は知識のバロメーターであると同時に、それを取得しようという意欲の現われでもある。虚仮脅しに使うのであればその努力はあまり効率的とは言えないだろう。では、どこにその意欲が使われているのかといえば、仕事で相手となる不動産の素人が困っている状況に直面し、それをなんとかしようという「お節介」のために使われていることが想像される。要するに、問題解決のための武器アイテムが1つでも多いほうが、途中でゲームオーバーにならずに済む確率が高くなるというわけだ。
本書を読んで、それまで遠い存在だった不動産投資が急に身近に感じられるような奇跡は起きない。また、そう誘導するような甘い言葉も見られない。むしろ、著者がコンサルティングを通して見てきた失敗例がふんだんに掲載され、世の中に不動産投資にまつわる悲惨な状況が多くあることを知ることになる。
やっぱり不動産投資は怖いーー
そう思うのも無理はない。しかしそれは、正体を知らずに、やたらめったら大切な資産を、信用できるかどうかも判断できない状態で、自分の手の届かないところに預けてしまうからそうなってしまうのだ。
正体を知りなさい。そうすれば怖くない。怖くなくなったところから、どうすればいいのかという冷静で正常なアイデアはスタートする。
本書を読み終えると、そう呼びかけてくれる著者の声が聞こえる。そしてそこから、プロの手によってサポートを受けるべき分野に自分が踏み込むかどうかを考えることが始まる。
私事だが、ボクは本書では紹介されている失敗例を体験する寸前までいったことがある。そのときに出逢ったのが、著者の在籍するコンサルティング会社だった。そして、著者のコンサルティングを受け、ノウハウを公開するセミナーにも通った。そして、失敗例にならずに済んだ。
それもこれも、お節介な著者のおかげなのだ。
この正体は、自分の人生を見つめ直すときに、必ず役に立つ知識となる。だからボクも、このお節介をほかの人にもお勧めするのだ。それをお節介だと言われようとも…。
サブカル世代の自分としては、ものごとを裏から見るというのはアタリマエの作業だったような気がするのだが、その後の高度経済成長期では「生きづらい」思いをすることも多く、そのはけ口として書き手という別人格を利用してきたような気がする。
音楽は、「美」という絶対的な観念が基準となるはずだからブレようもないと思っていたのに、意外と時代背景に左右されることに気づいたのは、戦後が終わったとされる1990年代のことだろうか。それまでは、終戦という混乱のなかで噴出したイデオロギーが自滅しあう断末魔の叫びを聞き続けるという、見ている分にはスリルがあったかもしれないが、当事者としてはやりきれない時期だったのではないかと思う。もちろん、ボクは当事者ではなかったが。
こうして当事者から外れた世代がようやく周囲を見渡せるようになって、それまでの「常識」に棹をさせる地位と機会を得られるようになってきた。
本書は、音楽のなかでもガチガチの先入観に閉じ込められていたクラシック音楽に、新たな光を当てようとする、文化論的な音楽論の一種と言える。
おそらく、現代で取り上げられ「クラシック音楽」と呼ばれる音楽は、すでに前時代のガチガチに規制された儀式のためのアイテムではないため、ポピュラー音楽と同列で分析することが正しいのだろう。しかし、それまでは非ポピュラー音楽的な倫理や哲学で論じられてきたのだから、違和感を感じても不思議ではない。
本書では、その違和感の源泉がどこにあるのかを明らかにし、自分と等身大の音楽の付き合い方を始めることができる尺度を見つけるためのヒントが多くある。
勢い、ポピュラー音楽の代表であったジャズにも言及せざるを得なくなるのは前述の理由によるものだが、その一文も興味深いので、転記しておきたい。
4年ほど前、それまで住んでいたところを引き払って、まったく違うライフ・スタイルにしようと決心したときに、ジャズ・ライターの仕事に影響する恐れがあったので、落ち着くまで取材などを控えるように編集部にお願いしたりしていた。
当然、収入はなくなるわけで、コンビニのアルバイトも考えたが、ダメもとで昔働いていた編集プロダクションに連絡してみると「雇ってあげる」と言われたので、お世話になることにした。
40代後半の正社員を雇用するのは、その会社にとっても負担が大きかったと思うので、その点ではとても感謝している。
労働基準局の指導によって、年齢による最低賃金の縛りがある。ボクは月10万円程度のアルバイト代でいいと思っていたのだが、フル勤務であればそういうわけにもいかないのだそうだ。
結局、額面で35万円という月給で「まあ、1年くらい、ようすをみてみましょう」ということで働き出した。
自分の会社は休眠状態にして、月給をもらう生活というのを25年ぶりくらいに体験したのだが、その体験から言わせてもらえれば、日本の雇用体制は矛盾だらけで、かなり経済の足を引っ張っていると感じた。
勤めは10カ月ほどで常務から「ほかの社員に悪い影響があるから」というよくわからない理由で解雇され(社員が50人以上いるその業界では大手だった)、ボクは会社理由の解雇として退社後2週間ほどから(一応、審査の申請をしなければならなかったので、翌日からはもらえなかったのだ)90日分の失業保険をもらえることになったというオマケまでついた。ちなみに、失業保険は民主党の人気取り政策で60日間プラスされ、150日分も月収額面の半分ほどをいただけることになったのだが。
ということで、それ以来、雇用問題に興味をもって調べているうちに出遭ったのが本書。
ダッチモデルが気になった。
著者の見解では、ニュースで喧伝されている雇用状況とは逆のことが浮かび上がっていることが興味深い。
転職の難しさは、失業保険のシステムをみても同意できる。ヘッドハンティングで翌日から賃金が保証されて違う会社に移らないかぎり、少なくとも自己理由での退社に因る職探しでは、1カ月で勤め先が見つかったとしても2カ月の無給期間が生じる。つまり、3カ月以上の生活費と、そのほかに就職活動に費やせる蓄えがなければ、実際には転職できないというのが現実だ。
会社側の雇用体制の変化は、そのほとんどが会社および経営にとって都合のよいように変えられていく。ゲームのディーラーは会社なのだから、ルールはギャラリーの手の届かないところで作られるのだ。
雇用問題が語られるときに「弱者」というキーワードを使うメディアがあるのだけれど、ボクは当事者意識が薄いこの言葉が嫌いだ。ほとんどの会社員は、薄氷の上で日々を暮らし、下を見ないようにして、ミシミシといういまにも割れそうな音に耳を塞いで暮らしている。
先述したように、ルールは会社側の作っているから、いくらその矛盾を指摘しても、あまり役には立たない。
こうした問題を掘り起こすたびに、合法的な自己救済のできるアイデアと柔軟性を身につける必要性をヒシヒシと感じてしまうのだ。
その意味においても、警鐘を鳴らしてくれる本書の意義は大きい。
経済の仕組みのなかで生活をしている以上、お金の出入りに関する知識は必須だ。
経済の勉強は面倒だと思っていた。ボクは商売屋に生まれたが、親はほとんど経済について教えてくれなかった。別に世界の金融について学ぼうというのではない。
商売の手伝いをすると、お駄賃をもらうことができた。鶏卵の10kg入りの箱を仕入れ、それを店先の棚に並べるために、ヒビが入っていないかを確かめながら移して行く。これをやると、50円もらえたと記憶している。いわゆる労働対価としてのお駄賃だ。
お小遣いとは違うので、いわゆる経済活動に入るものだろう。
しかし、10kgの鶏卵を右から左に移す行動が、どのような基準で50円という価格になるのかは理解できなかった。おそらく50円は、それを握ってお菓子屋にいくと、アイスとチョコレートが買えたというほうの「対価」としての意味が大きかったのだろう。
もちろん、その理論によっても世界が動いていることを知ることは重要だが、意味のない取引の中では学ぶための意欲は湧いてこない。
本書は、こんな数字音痴の自分でも興味をもって経済の原則に近づくことのできる、生活の基盤を築くためのテキストだ。
サラリーマンの経済行為は、見えない部分で必要経費を引かれ、将来価値などを加味した塩梅によって、実際には国が決めた年齢による標準給与になるべく合わせたかたちで支給される。
しかし、実際に企業は規定の報酬をやり取りして経済活動を行なうわけではないし、最低売上基準が決められているわけでもない。大儲けすることもできれば、損失を回収できないことだってある。
だから、経営という行為に関係するすべての人は、利益に対する正しい知識を有している必要がある。
利益について正確な認識が確立したら、重要指数についての知識を得たい。利益の質を分析できるようになることが、経済活動の中で生き残るためには重要だからである。
ボクは、実家の商売を継がなければならなくなった26歳のとき、会計の知識はゼロに等しかった。父親が生きているときに帳簿の手伝いくらいはしたことがあったけれど、バランス・シートがどのような仕組みなのか、決算で黒字になるのと赤字になるのではなにがどう違うのか、ぜんぜん知らなかった。それもで、どんぶり勘定の小売業は、日銭が手元に残っていれば、それで商売が成り立っているという認識だったから、それ以上なにかを学ぶ必要は感じていなかった。
しばらくして小売業に見切りをつけたのも、総売上から母親と自分と配偶者の賃金を差し引いたら赤字になる、すなわち手残りがないことにようやく気づいたからだ。いくらちゃんと帳簿をつけても、収支が逆転していたら商売は続けられない。
フリーランスの編集やライターの仕事を始めると、会計のバランスがガラリと変わった。でもまた、どんぶり勘定で、入ってきただけ使ってしまっていた。
45歳を過ぎてから、1−1=0という会計概念ではこの先は暮らしていけないことがようやくわかった(遅いなぁ…)。
そして、ファイナンシャルプランニング技能士3級の資格を取るなど、そこからの脱却をはかることにしたのだ。
会計を知れば、1−1=0が0でなくなることも可能なのだ。知らないときはそれが「ありえない」と思っていたのだけれど、世の中には控除や還付など、さまざまな0ではなくしてくれる仕組みが存在し、それは会計の知識がなければ見過ごしてしまうものだった。いままでどのくらい知らずに損をしていたのだろう。そう考えると悔しいが、知ればそれを取り戻すチャンスが訪れる。
そのチャンスを与えてくれるきっかけが、この本にはあるわけだ。