米誌「アトランティック」の記者による、質問の“極意”についての記事。
ベテラン記者が自らの業績を振り返り、自分は質問上手だと自負し、賢い質問がその自らを支え、仕事を継続させてきたと「思っていた」というマクラから始まる。
「賢い質問というのは、質問者が賢いということを相手に伝えるための質問のことだ」という指針は、おそらく質問を生業とする人なら陥るに違いない心境だと思う。私も仕事を始めたころは、そう繕うのに必死だった。無理もないのは、被質問者が質問者を品定めすることのほうがアタリマエのことだったからだ。自分の未熟さやバカさを見抜かれないようにするというのが、取材やインタビューの記者側の基本スタンスなのだ。そのための目標は、当然、賢い質問ができたかどうか、ということになる。
特にアメリカ人に多い印象があるのだけれど、「良い質問だね」と、答えを返してくれる前に付け加えてくれることがある。日本人では質問者にそういう言葉を投げかけることはほとんどなかったので(30年前のことだ)、最初のころはとても嬉しかったものだ。
しかし、そうしたことが何回が重なると、自分の質問を冷静に振り返るようにもなって、そうすると「ちょっとオーバーかな」と思うようになった。結論から言えば、相手にとって私の質問の仕方内容は「まあまあ」で、「悪くない」から「良い」程度の社交辞令、あるいは自分が気持ち良くしゃべるための合いの手ぐらいのものだったんじゃないかと気付いたわけだ。
それから私は、どうやって相手が気持ち良くしゃべれるかを考えて質問に臨むようになったと思っている。
記事でもBDQ、デカくてバカな質問(Big Dumb Question)の無意味さに解れているが、BDQで攻めるのではなく、小さくてパーソナルな質問を積み重ねて、その席のテーマとしてのBDQで締め括れるようなストーリーが描けるようになれば、その記事は成功したと言えるんじゃないかと思っている。
そして、本来のBDの使い方は「それについて知らないから教えてほしい」という姿勢を見せることであり、それによって相手の胸襟を開くことを目的にしなければならない。インタビューはマウンティングの場ではないのだから。
記事はこう締め括られている。
「いい質問というのはきっと、より充実した質問にたどり着くための質問のことなのだ」
そう、だから私は質問の途中で言い淀んだり、回りくどくなって「もう一度言って」と言われたりしたときのほうが、「しめた!」と思うのだ(笑)。