富澤えいちの執筆担当記事の紹介です。
この連載を始めるきっかけになったのが、内田晃一『日本のジャズ史』に出てきた「上海帰りは箔が付く」というフレーズでした。
戦前の日本のジャズ・シーンで、それほどの求心力が当時の上海にあったことの違和感。
しかし、ジャズはアメリカから直ではなく、アジア経由ではなかったのか。
そういった頭に浮かんだ疑問を、いろいろ調べてみての原稿です。
富澤えいちの執筆担当記事の紹介です。
この連載を始めるきっかけになったのが、内田晃一『日本のジャズ史』に出てきた「上海帰りは箔が付く」というフレーズでした。
戦前の日本のジャズ・シーンで、それほどの求心力が当時の上海にあったことの違和感。
しかし、ジャズはアメリカから直ではなく、アジア経由ではなかったのか。
そういった頭に浮かんだ疑問を、いろいろ調べてみての原稿です。
富澤えいちの執筆担当記事の紹介です。
俵山昌之さんには、2013年と14年、タワー・ステーションの1枚目と2枚目のリリースのタイミングで話を聞くことが出来ました。
AZOOとかサムライ・ビバップのエピソードは割愛していますが、なかなか聞くことが出来ない経歴を話していただき、とても印象に残っています。
オフレコの話も多かったのですが(笑)。
ご冥福をお祈りいたします。
以下は、取材した2枚のディスク・レヴュー。
益田幹夫トリオに参加するなど1990年代初頭から頭角を現し、大野雄二&ルパンティック・ファイヴに約8年在籍、その後もJジャズの牽引役として活動の幅を広げてきたベーシストの俵山昌之率いる“タワー・ステーション”の1stアルバム。バンド名は俵山が“タワちゃん(さん)”と呼ばれ親しまれていること+自分たちの音楽が駅(ステーション)のような交流の場や心の拠り所になればという願いを込めて付けられた。メンバーの選択は俵山が参加していた異なるプロジェクトの面々からだが、東日本大震災直後に「自分にもなにかできることはないか」と考えていたときに浮かんだ顔ぶれという。リーダー・バンドを初めて組む彼の脳裏に投影されたバンドのイメージは、それまで彼が共演によって蓄積してきた感触をもとに再構築されたスムースでポップなサウンドが土台となり、細部ではジャズ・ミュージシャンならではのコダワリがいたるところに潜んでいて、イージー・リスニングと呼ばせない密度の濃さを滲ませることになった。全体的に「ソロは短め、ベースも控えめ」と語っていた俵山だが、「オリエンタル・ウォーク」ではドラム・スティックを用いた独自のチョッパー奏法をおりまぜながらソロ・パフォーマンスを披露するなどベース・マニアも大満足の内容で、笑顔と元気にあふれた1枚にまとまっている。<富澤えいち>
俵山昌之、福井ともみ、藤井学というJジャズを支えるリズムセクションに、太田剣と太田朱美が正式に加入してリスタートしたタワー・ステーションのセカンド・アルバム。前作はこのバンドのメイン・コンセプトであるブラジリアン・ジャズを前面に出し、スムースで親しみやすいサウンドを確立させたが、本作では路線を踏襲しながらもダブル太田のフロントによるアンサンブルに厚みが増して、軽みと聴きごたえのある重量感をバランス良く両立させている。俵山のオリジナルを中心に構成されるタワー・ステーションでは、彼がこのバンドでしか表現できない“楽しさ”という基準に照らし合わせて曲を選ぶとのことだが、メンバーがそのイメージをしっかり共有して思い思いの“楽しさ”を追加しているところに、このバンドならではの妙味が生まれる。セッション・スタイルでは出すことのできない空気感を大切にしようとするこうしたスタイルは、リーダーシップもさることながらメンバーシップの賜物といえるだろう。カヴァー曲の「ブルー・ボッサ」はケニー・ドーハムが盟友ジョー・ヘンダーソンのアルバムのために贈ったブラジリアン・ジャズを代表する名曲だが、福井はこのイメージを払拭してアレンジし、従来のブラジリアン風なテイストを脱却した新たなバンドの方向性を示し得た。展開が楽しみな第2幕だ。<富澤えいち>
富澤えいちのコメント記事の紹介です。
東京新聞2020年5月30日の最終面、冊子だと表4なんですが、新聞だとなんというのか……(笑)。
先週、電話で取材があり、コメントをした文章が掲載されています。
一介の音楽ライターで、こうしたコメントが政治的な論争に巻き込まれるかもしれないことは承知しているつもりですが、30年以上もこの業界で仕事をしている者として、果たすべき責任はあると考えています。
神奈川県などにも働きかけをしていますが、行政としては一部の業態を把握する余裕がないのではないかというのが、いまの正直な感想です。
現場を取材していて感じるのは、「ロードマップを作ってくれ」と要望するのではなく、当事者が実情に合ったロードマップを作成して、その実効性を専門家に(行政をとおして)検証してもらい、その結果を公表して信頼性を得ることが必要だと考えています。
富澤えいちの執筆担当記事の紹介です。
アジアのジャズ事情をひもとこうと始めた事始めシリーズ。
上海を中心に、もしかしたらジャズはこちらが中心だったのでは? というイメージが、だいぶ湧き上がってくるようになりました。
そういえば、欧州航路については、永松先生がベルリンオリンピックに行ったときの話を、左門町にあった「晴」(はる)という居酒屋で、船で2週間ぐらいかかるんだよ〜などと聞いていたことを思い出しました。
そのときは、オリンピックの選手団だから特別仕立ての船なのかと思っていましたが、調べてみると定期航路もあって、日本近海フェリーとまではいかないけれど、けっこう気軽な船旅だったんじゃないかと想像できますね。
永松先生(永松 英吉/ながまつ ひできち、男性、1914年8月4日〜1992年11月18日)は、日本の元アマチュアボクシング選手。ベルリンオリンピックライト級日本代表。明治大学卒業。)には警察学校(とおっしゃってました)で教えた帰りに「晴」に立ち寄っておられて、よくおごっていただきました。
もうあまり外出する機会がなくて、サンデー毎日なんだよ〜、というのが口癖で、株を保有しているからと某メーカーのビールしか頼まれないことを覚えています。
しばらく飲んで、良い心持ちになったころに、奥様の菅原都々子さんが迎えに来るというのもお約束。先生のお宅は「晴」のすぐ裏手で、私も肩をお貸ししてお送りしたことがありました。
都々子さんのリサイタルが新橋のヤクルトホールで開かれたときに、「晴」の常連が連なって観に行ったこともありました。
戻って来て「晴」で常連だけの打ち上げをやりましたっけ。都々子さんが顔を出してくれて、飲み物の手配をしていただいたことも覚えています。
「晴」は、文学座の稽古場が近かったので、関係者もよく集まっていました。江守徹さんの声の大きさには驚きましたけど。
このお店のマスターは、元々は四谷の新道通りを出て少し行ったところにあった「ぴったん」という店の方で、「晴」を開くときにアルバイト先に連絡をいただいて、学生だったころにアルバイト先の社長と飲みに行ったことがあります。
通うようになったのは、最初に訪れてから7〜8年後で、すでに結婚して、「晴」の近くに引っ越したので、思い出して行ってみたらほとんど常連みたいになったという感じでした。
「晴」のマスターには、閉店のときも挨拶ができず、アルバイト先というのは実はアルバイトではなかったとか、いろいろ思い出してくると感傷的になることばかりなので、このへんでやめておきましょう。
富澤えいちの執筆担当記事の紹介です。
日本でジャズを語るとき、太平洋を挟んで東側しか意識を向けないできましたが、明治維新後の日本を横浜に来てから意識することで、もしかしたら西の方のルートというのが重要なのではないかと考えるようになりました。
古来、シルクロードもそうですが、日本の文化は西からもたらされていたわけですから。
フィリピンをひもといてみると、意外にジャズとの設定が深そうで、現在に至るまでフィリピン出身で日本でも活躍しているミュージシャンが多いわけが、なんとなくわかるようになってきました。