YAMAHA 音楽ライター記事更新(ジョン・コルトレーン編<3>|なぜジャズには“踏み絵”が必要だったのか?)

富澤えいちの執筆担当記事の紹介です。

 

 

この回では、コルトレーンがマイルスのマラソン・セッションの後に、療養のため故郷のフィラデルフィアへ引っ込んだ1956年末から半年ぐらいの、いわゆる“空白期”について追ってみたことをまとめてみました。

この時期に、コルトレーンはあきらかに“天啓”を受けているようです。

そして、再びニューヨークに戻ってきたときには。誰もがその存在を認めざるをえないほどのジャズを演奏できるようになっていたわけです。

 

 

 

YAMAHA 音楽ライター記事更新(ジョン・コルトレーン編<2>|なぜジャズには“踏み絵”が必要だったのか?)

 

富澤えいちの執筆担当記事の紹介です。

 

 

マイルスのニューポート・ジャズ・フェスといえば、セクステットで出演した1958年の録音が有名ですが、実はマイルスの名を広く知らしめるきっかけとなった1955年の単独参加のときの録音も残っていました。

ウチにあったかなぁと探してみたら、ありました(笑)。

モンクのピアノをバックに、ほぼデュオという感じで「ラウンド・ミッドナイト」を演奏していますが、いいんですよ、これが〜。

 

そうすると、マイルスは言うことを聞くモンクのフィーリングをもったプレイヤーがほしくてトレーンに目を付けていたということなのかな???

 

 

YAMAHA 音楽ライター記事更新(チャーリー・パーカー編<4>|なぜジャズには“踏み絵”が必要だったのか?)

 

チャーリー・パーカーがなぜ“踏み絵”にされるのかを解き明かそうとする連載の第4弾。

 

 

マイルスの自伝からパーカーについて書かれた部分を引用して、パーカーがどのように同時代の人たちに認識されていたのかを追いました。

現在の認識とのズレをまず把握してからでないと、その“踏み絵”としての意味がとらえきれないと思ったからです。

次でパーカーについては結論を出す予定です。

 

 

YAMAHA 音楽ライター記事更新(チャーリー・パーカー編<3>|なぜジャズには“踏み絵”が必要だったのか?)

 

富澤えいちの執筆担当記事の紹介です。

 

 

ニューヨークの“シットイン”についての補足をしました。

チャーリー・パーカーがデビュー前に故郷のカンザスシティーで“シットイン”つまり飛び入りをしたときに、先輩たちからプロの洗礼を受けたというエピソードに、違和感を覚えていたことがきっかけです。

1年ぐらいでジャズ史を変えるほどの成長を遂げた、ということもありえなくはないのでしょうが、たぶん解釈の問題だったんじゃないかな、と。

 

 

 

 

YAMAHA 音楽ライター記事更新(チャーリー・パーカー編<2>|なぜジャズには“踏み絵”が必要だったのか?)

 

富澤えいちの執筆担当記事の紹介です。

 

 

“ジャズの踏み絵”というテーマで連作を書き始めています。

“踏み絵”という言葉は、現在では“ジャズ・ポリス”に言い換えられるのではないかと思っているので、がんばってそこまでたどり着きたいと思います。

この回では、チャーリー・パーカーのデビュー直前のジャズを復習して、彼が異端とされた意味を探ろうとしています。

 

この値段で10枚セット……。

 

こちらはサポイとダイヤルのコンプリート。

 

 

[自画自賛]ジャズ・ヴォーカルと映画音楽の親和性についての考察|音楽ジャーナリスト&ライターの眼(YAMAHA)

 

富澤えいちの執筆担当記事の紹介です。

 

ジャズ・ヴォーカルと映画音楽をテーマに書き始めたら、ちょっとした長期連載になってしまいました(笑)。

やはり、この2つに関しては、なかなか語り尽くせないなと感じましたね。

機会があったら、きちんとまとめたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あっちへ飛んだりこっちをつついたりで、とっちらかっていますけど、書いていてどんどん刺激を受ける、魅力的なテーマでした。

これを軸に、また論考を展開したいですね。