ライターとしての自分とエディターとしての自分という人格が統合できないところから書くことの楽しみが始まっているらしい

ブログは割と書きっぱなしだ。一応、1回は読み返してからアップするが、あとからカミさんに誤字や脱字を指摘されて、慌てて修正更新することもしばしばだ。

一方で、商品としての原稿は、書き上げたあとにプリントアウトしてチェックして、推敲を繰り返す。

自分でもこういう作業は「原稿料をいただくからには当然必要な作業」くらいにしか考えていなかったのだが、どうも違うのではないかと思うようになってきた。

それはこの「エンジニアが作るネットサービスのアイデアがしょぼいワケ」という記事にも通じるものがある。

記事によれば…

エンジニアと呼ばれるネットやサイトの企画を考えて現実化させる職務の人たちのアイデアが、プランナーと呼ばれる人たちのアイデアと根本的に違うのではないかということに言及したもの。

これは興味深い。

エンジニアが作るネットサービスのアイデアがしょぼいワケ【連載:えふしん】 – エンジニアtype
壮大なアイデアを思い付く横で、それが実現できないと思ってしまう自分がその段階で心にブレーキをかける。

結果、その繰り返しになってしまって、大きなアイデアが見つからない。 …

要するに、エンジニアと呼ばれる職務では、大前提に「システムができる範囲」を熟知していることが求められる、そのなかで「なにができるのか」を考える習性がついているというわけだ。

ところが、プランナーはその枠を外れてもいいという「特権」をもっているようにボクは感じている。その「特権」は、無茶なリクエストを押し通して成果をあげてきたからこそできるものであることはたしかなのだけれど、逆に言えばそれができないと差別化できないということにもなる。

エンジニアほど状況を把握していない人がエンジニアの上に立ってプロジェクトをゼロから生み出して行くのは、かなりの抵抗を覚悟しなければならない。ある時は成功を小出しにして納得させ、ある時は無視して突っ走る。その度量がなければ才能は現実化できない。

無茶でも、とりあえずやってみる。その先に新しい景色が待っているかもしれない、ということを信じて。

つまり、ライターは媒体のことなど気にせずに自分が感じたことを言葉にトランスレーションできる立場であることを優先し、エディターはどうやって既成のシステムにそのアイデアを具現化するかに腐心するべきということになる。

だから、具現化を考えながら原稿を書くという行為は矛盾していることになるのだ。

これに気がつけば、売れる文章を書くというジレンマから脱出できるに違いない。そもそも書くということと売れる=適切なシステム化=エディットは違う世界の作業なのだから。

もちろん、どちらも重要であることは言うまでもないが。