福島遠征の2日目は観光タクシーで飯坂周辺の旧跡からフルーツラインを南下して土湯近くの施設を巡った

10時に迎えの観光タクシーがホテル前まで来てくれて、それに乗車。叔父さんがチャーターしておいてくれたのだ。

ここに叔父夫婦、母親、ウチの夫婦の5人が乗り込んで、夕方の新幹線の時間まで福島を観光することになった。

今回は母方の母(つまりボクの祖母)が9月に99歳で亡くなったので、その霊前にお参りするための行脚だった。神道式でお見送りしたので墓などがないために表現が難しいな。

母の実家は福島から北に行った伊達郡の半田というところにある。

江戸時代から続く農家で、母の弟である叔父が8代目くらいになるはずだ。

とは言っても、戦後はいろいろと苦労して、母親からはお嬢様らしいエピソードを聞いたことがない。叔父は米作中心の農業政策に疑問を抱いて、自力で活路を開く道を選んだ。かつては見渡す限り自分の土地だったものを、相続やら固定資産やらの税金でむしり取られるのをなんとか阻止して、最近はしいたけ栽培などで安定した生計を立てていたようだ。

ところが、そこに東日本大震災と福島第一原発の事故。叔父の椎茸山は飯館村の間近だそうで、現在は休業を余儀無くされている。

亡くなった祖母は後妻で、母親にとっては継母となる。ボクとは血縁がないのだが、夏休みには毎年のように遊びに行って、優しくしてもらった覚えがある。その祖母を弔い、叔父の憂さを少しでも晴らす手伝いができればというのが、今回の福島行脚の大きな目的だった。

ということで、叔父たちとワゴン・タクシーに乗り込んで、半日の観光を楽しむことにする。

 

最初に到着したのは中野不動というお不動様。山を切り拓いたような場所にあって、順路に従って進むと洞窟を巡れるようになっていて、なかには36体もの童子の銅像が飾ってあるというおもしろい場所だった。お祭りや年始にはたいへんな人出になるそうだ。

この滝では修行者が滝打ちの行をしているとか。

 

岩と社が入り組んで、ちょっとした洞窟探検気分を味わうことができる。

 

周辺は立派なご神木が林立している。

 

本堂は落ち着いた佇まい。立派な菊が飾られていた。

 

移動して醫王寺へ。こちらは平安末期に広く東北一帯を治めていた佐藤氏の一族の菩提寺で、とくに義経に従った佐藤継信と忠信は忠臣として有名とのこと。

 

本堂にはこんな駕籠も吊るされていた。なにに使ったのかは説明書きがなく不明。

 

本堂内のひと間には、若桜と楓の人形が祀られていた。

 

若桜と楓はこういう人物。

 

本堂横に、芭蕉が詠んだ句碑があった。芭蕉は奥の細道の旅の途中でわざわざこの寺に立ち寄ったようだ。それほど江戸時代には佐藤兄弟の話が広く伝わっていたのだ。

ちなみに芭蕉が詠んだのは「笈も太刀も五月にかざれ紙幟」。笈(おい)というのは芝居で義経に同行する弁慶が背負っている箱のようなもの。いまでいうバックパックのようなものかな。寺内の資料館には笈も飾ってあったのだけれど、撮影禁止だったので写メはなし。

 

墓地に行くとこんな石像が。

中央が義経、左右に継信と忠信。義経は平泉に落ちる途中に兄弟の父がいる大鳥城を訪ね、自分を救ってくれた兄弟の武勲を伝えたそうだ。

 

醫王寺の奥には、薬師堂が建っていた。これは、飯坂温泉を発見したという鯖湖親王を祀った宮ということ。

 

御堂の柵には穴を開けた石に願い事のようなものが書かれてぶら下がっていた。これはおそらく“ミミイシ”ではないだろうか。

ミミイシ(耳石)については、写真家で医師の栂嶺レイさんが「GRAPHICATION」誌に掲載している「誰も知らない熊野」で読んだことがあったので、ピンッときた。

ミミイシは、熊野一帯に広がっている楊枝薬師堂に伝わる頭痛平癒の願掛けのようなもの。「平安末期に熊野へ34回も参詣を繰り返したという後白河法皇が実は頭痛持ちで、ここ(熊野古道伊勢路の最大の川渡し場だった楊枝の渡し場跡の集落)に生えていた大柳を棟木にして三十三間堂(蓮華王院)を建てたところ頭痛が治った」という由来によって、川底で洗われて穴の空いた石を耳に見立てて頭の入り口だった耳に掛けて病気平癒を願ったものと言われている。

熊野から遠く離れた福島の飯坂でまさかミミイシを見ることができるとは思えなかったのでびっくりした。

おそらく鯖湖親王が関係しているんじゃないだろうか。鯖湖親王を祀った御堂を薬師堂としているのも、意味がありそうだが、残念ながら鯖湖親王はその存在が確認できない人物のようで、飯坂温泉発見という話を含めて後から作られたものであるかもしれない。

ただ、醫王は薬師如来の異名“大醫王仏”であることに由来していることから考えると、あながち無関係、まったくの作り話というわけではないのかもしれない。

御堂のなかにはお参りに来たらしき年配の女性が何人かいて、なにやらおしゃべりをしていたのだが、お篭りのような風習もあるのだろうか。

 

近くにはたわわに柿がなっている場所がたくさんあった。福島はフルーツ栽培も盛んだが、収穫量がそれほど多くないので、首都圏で有名になるほどではない。しかし、県内で消費されるその品質は誇れるもので、ボクもその恩恵にあずかっている。

ところが、原発事故の影響がここにも出ていて、ほかの果樹はそうでもないのだが、渋柿を干して作る干し柿は放射能が凝縮されるために収穫できない状態で、それで木にならしたまま放っておかなければならないのだそうだ。

リンゴは色づいてそろそろ出荷の時期を迎えるとのことだったが、色づいた柿は原発事故への警告のように赤く灯ったまま人間を見下ろし続けるのだ。

 

醫王寺の薬師堂へ続く道。こちらがまっすぐで、薬師堂の裏にある佐藤家先祖の墓石群がメインだったことがわかる配置。本堂は右側に外れて建てられている。

 

昼食後にあずま総合運動公園へ移動。

昼食の記事はこちら。

 

鳥一富澤商店 » 飯坂の果樹畑の奥にある“どう楽”で繋ぎ無しの蕎麦を堪能する

 

 

 

 

福島駅前もそうだったが、あちこちで除染作業がいまでも続けられている。落ち葉が溜まったりすると繰り返し行なわなければいけないのかもしれない。そうなるとおそらく無限にこの作業を続けなければいけないということになってしまうのだが、そういう現実感はやはり実際に見てみなければ伝わってこない。

 

福島市民家園に入って、近隣に残っていた古民家を移築して古の暮らしを体験できるスペースを散策。

これは“ばったら”という簡易水車。仕組みは鹿威しと同じ。

 

小屋のなかでは、上下する杵で臼に穀物などを入れておいて、オートマチックに突いたのだろう。いわゆるロボット化のルーツのようなものだ。

 

“ばったら”というのは、きっとばったらばったらと音がしていたからそう呼ばれるようになったんだろうね。

 

福島は養蚕も盛んだった。母の実家もやっていたそうだ。奥には機織り機が見える。

 

街道筋の商店を再現していた建物。タバコ屋さんのようだ。2階は「商人宿」となっていたので、いまのビジネスホテルのように、行商人を対象とした簡易宿泊所も併設されていたのだろう。

 

平屋のとても品のいい家もある。農業などの作業をする目的ではない風流な建物もあったことがうかがえる。

 

庭もすばらしい。

 

梁川にあった広瀬座という芝居小屋。明治中頃の建築ということだが、ボクの父方は梁川の出身なので、もしかするとこの建物に曽祖父あたりが足を運んだりしていたのかもしれない。そう思うと感慨も深い。

 

広瀬座の内部。桟敷と花道。

 

明かり取りはあるが、夜には提灯だけの照明だったのだろう。そういう環境のなかで芝居が発達してきたということは、演出などを考えるうえで結構重要になるのかもしれない。

 

農家の母屋は茅葺で、周囲の壁は漆喰で固められて窓がなく、なかは薄暗い。農作物には太陽光がないほうがいいのかもしれないが、土蔵のような家でエンドレスの作業をしなければいけなかった時代の人たちの苦労が偲ばれる。

 

展示館では、昔の作業に使った道具や、体験ができる部屋もあった。小学生らしき集団がいたのもうなづける。

 

さらに土湯温泉のほうへ上って行き、西田記念館というこけし博物館のような施設を見学。

東北に伝わるこけしは11系統に分類され、福島には土湯系というこけしが伝わっている。西田峯吉氏はこけし研究の第一人者で、この記念館のコレクションや展示も見ごたえがあるものだった。

 

西田記念館の入り口にあった巨大なこけし。

 

 

ここを出て駅に戻り、叔父夫婦と別れを告げて、東京へ戻る。

 

午後になり、福島に吹く風は昨日とうってかわって寒さを感じるものになっていた。叔父は「来週は雪さ降るな」と言っていた。

東京駅に到着してホームに降りると、空気がぬるいんでいるのを感じる。

新幹線で1時間半の、近くて遠い福島。

 

また行くことにしよう。