神戸にはジャズが似合うのか問題について考えてみる

読売新聞でこのところ「神戸とジャズ」に言及する文化部っぽい記事がいくつか目に止まったような気がしている。

具体的に何本とかリンクを探すつもりはないのであくまでも個人的な印象なのだけれど、おそらく観光の戦略として意図的に露出してきているのだと思っている。

この記事も“なぜ神戸?”と釣りタイトルを付けながら、本文ではほとんど答えていなかったりする。

まあ、井田一郎についての蘊蓄を傾けても、読者が喜ぶとは思えないので仕方のないことかもしれないが。

日本のジャズ事始めについては、神戸か横浜かという論争の検証をしたことがあり、確かに神戸に分があるという心証は得たものの、なにしろ資料が乏しかったりもするので、決定的ではなかった。明治時代の欧州航路で神戸も横浜もターミナル的な位置付けだったから、海外文化の窓口としてほぼ同時にジャズを受け容れ、ビジネス展開させていたのだと思う。

大阪に対する神戸と、東京に対する横浜は、双子のように文明開化の日本の新しいものを一時預かりするエリアとして機能していたんじゃないだろうか。

ただひとつ、神戸に分があるとすれば、確かにジャズが“似合う街”としての風景的なアドバンテージがあるところだろうか。神戸の、山を背負った“狭さ”が、ジャズというマニアックなテーマで周遊するのにちょうど良いし、それだけの“文化遺産”が記事でも紹介されているように、機能している。

クラファンもどうなるのか、神戸=ジャズの展開を楽しみにしたい。