「連載20[ジャズ事始め]ジャズは自分にとってなんなのかを追求した日本人・穐吉敏子の答え」という記事がヤマハWEB音遊人にアップされています!

富澤えいちの執筆担当記事の紹介です。

横浜に引っ越して10年、この開港=明治維新、つまり日本が西洋音楽を同化し始めた入口にある街で音楽を見直しはじめてみると、既成概念でとらえていたジャズが違って見えるようになってきました。

穐吉敏子さんの音楽についても、教科書で習ったことをそのまま疑問もなく受け容れていた自分がいたと思います。

いや、待てよ……。

という想いが、この原稿のきっかけでもあります。

「連載19[ジャズ事始め]ジャズのフィーリングを体得した穐吉敏子が「フィリピン人のようだ」と褒められたワケ」という記事がヤマハWEB音遊人にアップされています!

富澤えいちの執筆担当記事の紹介です。

アジアのジャズを眺めていたら、穐吉敏子さんの本に書いてあったことが、まったく違った角度から問い掛けてきました。

最初に読んだときはぜんぜんそういうニュアンスだと気づかなかったのに(ただ単純に当時の時代背景がそうだったと読み飛ばしてしまった)、穐吉さんはもっと深いことを言おうとしていたのですね。

「連載17[ジャズ事始め]上海がアジアにおけるジャズのホット・スポットであった歴史的事実とアジア・ジャズの関係性を解いてみる」という記事がヤマハWEB音遊人にアップされています!

富澤えいちの執筆担当記事の紹介です。

連載17[ジャズ事始め]上海がアジアにおけるジャズのホット・スポットであった歴史的事実とアジア・ジャズの関係性を解いてみる

上海は明らかにジャズの発信源のひとつではあったけれど、「アジア発のジャズ」を産むには至らなかった、というのがひとつの結論です。

ただ、それが「ジャズの民族主義的な作風」が台頭する1970年以降になると、違う意味での発信源になってきたのではないか、というのがこの論考のこれからの展開になるはずなのですが、筆の勢いでどうなることやら……(笑)。

「連載15[ジャズ事始め]上海=“ジャズの都”のイメージを決定的にした背景には2人の歌姫の存在があった」という記事がヤマハWEB音遊人にアップされています!

富澤えいちの執筆担当記事の紹介です。

“上海リヴァイヴァル”というのは、思いつきで書いたキーワードですが、その後の流行が何波もあったことを考えると、かなり重要な影響因子ではないかと推測できます。

上海に駐在していた知人に現地のようすを20年ぐらい前に聞いた記憶があります。オールド・タウンは観光名所的に残されているけれど、JAZZの都だった面影はないという話にガッカリした覚えがあります。

「連載14[ジャズ事始め]アメリカよりも箔が付いた?“ジャズの蜜月地”上海」がヤマハWEB音遊人にアップされています!

富澤えいちの執筆担当記事の紹介です。

この連載を始めるきっかけになったのが、内田晃一『日本のジャズ史』に出てきた「上海帰りは箔が付く」というフレーズでした。

戦前の日本のジャズ・シーンで、それほどの求心力が当時の上海にあったことの違和感。

しかし、ジャズはアメリカから直ではなく、アジア経由ではなかったのか。

そういった頭に浮かんだ疑問を、いろいろ調べてみての原稿です。

「連載13[ジャズ事始め]なぜ上海は“ジャズの揺りかご”となったのか?」がヤマハWEB音遊人にアップされています!

富澤えいちの執筆担当記事の紹介です。

アジアのジャズ事情をひもとこうと始めた事始めシリーズ。

上海を中心に、もしかしたらジャズはこちらが中心だったのでは? というイメージが、だいぶ湧き上がってくるようになりました。

そういえば、欧州航路については、永松先生がベルリンオリンピックに行ったときの話を、左門町にあった「晴」(はる)という居酒屋で、船で2週間ぐらいかかるんだよ〜などと聞いていたことを思い出しました。

そのときは、オリンピックの選手団だから特別仕立ての船なのかと思っていましたが、調べてみると定期航路もあって、日本近海フェリーとまではいかないけれど、けっこう気軽な船旅だったんじゃないかと想像できますね。

永松先生(永松 英吉/ながまつ ひできち、男性、1914年8月4日〜1992年11月18日)は、日本の元アマチュアボクシング選手。ベルリンオリンピックライト級日本代表。明治大学卒業。)には警察学校(とおっしゃってました)で教えた帰りに「晴」に立ち寄っておられて、よくおごっていただきました。

もうあまり外出する機会がなくて、サンデー毎日なんだよ〜、というのが口癖で、株を保有しているからと某メーカーのビールしか頼まれないことを覚えています。

しばらく飲んで、良い心持ちになったころに、奥様の菅原都々子さんが迎えに来るというのもお約束。先生のお宅は「晴」のすぐ裏手で、私も肩をお貸ししてお送りしたことがありました。

都々子さんのリサイタルが新橋のヤクルトホールで開かれたときに、「晴」の常連が連なって観に行ったこともありました。

戻って来て「晴」で常連だけの打ち上げをやりましたっけ。都々子さんが顔を出してくれて、飲み物の手配をしていただいたことも覚えています。

「晴」は、文学座の稽古場が近かったので、関係者もよく集まっていました。江守徹さんの声の大きさには驚きましたけど。

このお店のマスターは、元々は四谷の新道通りを出て少し行ったところにあった「ぴったん」という店の方で、「晴」を開くときにアルバイト先に連絡をいただいて、学生だったころにアルバイト先の社長と飲みに行ったことがあります。

通うようになったのは、最初に訪れてから7〜8年後で、すでに結婚して、「晴」の近くに引っ越したので、思い出して行ってみたらほとんど常連みたいになったという感じでした。

「晴」のマスターには、閉店のときも挨拶ができず、アルバイト先というのは実はアルバイトではなかったとか、いろいろ思い出してくると感傷的になることばかりなので、このへんでやめておきましょう。

「連載12[ジャズ事始め]フィリピンが“ジャズ・ミュージシャン養成所”となったのは大航海時代の植民地支配が関係していた?」がヤマハWEB音遊人にアップされています!

富澤えいちの執筆担当記事の紹介です。

日本でジャズを語るとき、太平洋を挟んで東側しか意識を向けないできましたが、明治維新後の日本を横浜に来てから意識することで、もしかしたら西の方のルートというのが重要なのではないかと考えるようになりました。

古来、シルクロードもそうですが、日本の文化は西からもたらされていたわけですから。

フィリピンをひもといてみると、意外にジャズとの設定が深そうで、現在に至るまでフィリピン出身で日本でも活躍しているミュージシャンが多いわけが、なんとなくわかるようになってきました。

「連載11[ジャズ事始め]美貌の奇術師率いる天勝一座が運んできたジャズの香りとフィリピン・ルート」という記事がヤマハWEB音遊人にアップされています!

富澤えいちの執筆担当記事の紹介です。

横浜でジャズのことを調べていると、よく耳にするのが松旭斎天勝という名前です。

天勝の名声は世界に轟いていたとか。

プリンセス天功は孫弟子にあたるんだそうです。ボクは朝風マリ時代からファンだったんですけどね(笑)。