猪俣淳『不動産投資の正体』[reading memo]

幽霊の正体見たり枯れ尾花ーー。
なにごともその正体を見ることなく断じてはいけないということは、学校の先生が言いそうなことではあるけれど、社会に出れば「なるほど」と身に染みて理解できることが多い。

一方で、「投資」という言葉には表裏が常につきまとう。栄養と同じような意味で、未来の糧を得るために必要な行動を指すこともあれば、博打と同様にリスキーな行動の代名詞となったりもする。

そして「不動産」はと言えば、衣食住という生活に欠かせないアイテムの1つであり、資産に数えられることもあれば、負債に数えられることもあるという、これまたオモテ裏のある定義の難しい対象だ。

この3つのキーワードがタイトルに組み込まれた本書は、その3つの難しさを解き明かすための智慧を授けてくれる解説書である。

とはいえ、

数字と指標だらけでとっつきにくいという評の多かった前著『誰も書かなかった不動産投資の出口戦略・組合せ戦略』とは、一転、基本的な「考え方」にフォーカスを当て、パターン化した投資の特徴を理解していただくことを主眼においた」(11「最後に」より)

とあるものの、かなり「理屈や計算的な部分」が多い著書と言わざるを得ない。

でも、簡単に語れないのにはわけがある。だからこそ、何億もの金が動いたりするだけの価値を与えられるのだから。

それだけの価値があるにも関わらず、無造作に扱われることも事実である。

著者は、その素人ゆえの無造作を排して、正しい資産運用をするための基礎的な部分でもいいから、持ちたいという気持ちをもったほうが身のためですよということを、親切にもお節介にも示してくれているのだ。

著者がどれだけ親切でお節介なのかは、もしかすると本書を読んだだけではわからないかもしれない。その肩書きには多くの資格を有していることが記されている。「肩書きで人間は評価できない」などと言うけれど、肩書きは努力の結果を示したものでもある。資格は知識のバロメーターであると同時に、それを取得しようという意欲の現われでもある。虚仮脅しに使うのであればその努力はあまり効率的とは言えないだろう。では、どこにその意欲が使われているのかといえば、仕事で相手となる不動産の素人が困っている状況に直面し、それをなんとかしようという「お節介」のために使われていることが想像される。要するに、問題解決のための武器アイテムが1つでも多いほうが、途中でゲームオーバーにならずに済む確率が高くなるというわけだ。

本書を読んで、それまで遠い存在だった不動産投資が急に身近に感じられるような奇跡は起きない。また、そう誘導するような甘い言葉も見られない。むしろ、著者がコンサルティングを通して見てきた失敗例がふんだんに掲載され、世の中に不動産投資にまつわる悲惨な状況が多くあることを知ることになる。

やっぱり不動産投資は怖いーー

そう思うのも無理はない。しかしそれは、正体を知らずに、やたらめったら大切な資産を、信用できるかどうかも判断できない状態で、自分の手の届かないところに預けてしまうからそうなってしまうのだ。

正体を知りなさい。そうすれば怖くない。怖くなくなったところから、どうすればいいのかという冷静で正常なアイデアはスタートする。

本書を読み終えると、そう呼びかけてくれる著者の声が聞こえる。そしてそこから、プロの手によってサポートを受けるべき分野に自分が踏み込むかどうかを考えることが始まる。

私事だが、ボクは本書では紹介されている失敗例を体験する寸前までいったことがある。そのときに出逢ったのが、著者の在籍するコンサルティング会社だった。そして、著者のコンサルティングを受け、ノウハウを公開するセミナーにも通った。そして、失敗例にならずに済んだ。

それもこれも、お節介な著者のおかげなのだ。

この正体は、自分の人生を見つめ直すときに、必ず役に立つ知識となる。だからボクも、このお節介をほかの人にもお勧めするのだ。それをお節介だと言われようとも…。

森本恭正『西洋音楽論 クラシックに狂気を聴け』[reading memo]

サブカル世代の自分としては、ものごとを裏から見るというのはアタリマエの作業だったような気がするのだが、その後の高度経済成長期では「生きづらい」思いをすることも多く、そのはけ口として書き手という別人格を利用してきたような気がする。

音楽は、「美」という絶対的な観念が基準となるはずだからブレようもないと思っていたのに、意外と時代背景に左右されることに気づいたのは、戦後が終わったとされる1990年代のことだろうか。それまでは、終戦という混乱のなかで噴出したイデオロギーが自滅しあう断末魔の叫びを聞き続けるという、見ている分にはスリルがあったかもしれないが、当事者としてはやりきれない時期だったのではないかと思う。もちろん、ボクは当事者ではなかったが。

こうして当事者から外れた世代がようやく周囲を見渡せるようになって、それまでの「常識」に棹をさせる地位と機会を得られるようになってきた。

本書は、音楽のなかでもガチガチの先入観に閉じ込められていたクラシック音楽に、新たな光を当てようとする、文化論的な音楽論の一種と言える。

おそらく、現代で取り上げられ「クラシック音楽」と呼ばれる音楽は、すでに前時代のガチガチに規制された儀式のためのアイテムではないため、ポピュラー音楽と同列で分析することが正しいのだろう。しかし、それまでは非ポピュラー音楽的な倫理や哲学で論じられてきたのだから、違和感を感じても不思議ではない。

本書では、その違和感の源泉がどこにあるのかを明らかにし、自分と等身大の音楽の付き合い方を始めることができる尺度を見つけるためのヒントが多くある。

勢い、ポピュラー音楽の代表であったジャズにも言及せざるを得なくなるのは前述の理由によるものだが、その一文も興味深いので、転記しておきたい。

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4/20 きょうの栄養:消費カロリー多めにもかかわらず炭水化物オーバーか?

朝はカミさんが焼いておいてくれるパンを食べるのが習慣になった。横浜に引っ越す前に10カ月ほど毎朝務めに出るという日常を送っていたので、決まった時間に起きて朝食を摂るようにした。それまでは自由業なので朝食を摂ることがなかった、というよりも、前の晩に飲み過ぎたりしてとても食欲がわかず、お昼に第一食というのがパターンだったのだ。

務めていた期間の朝食はご飯とおかずだったが、体質的になのだろうか、白米を朝に食べると胃にもたれるのだ。なので、パンに変えてもらうようになったのが、朝食=パンという習慣の始まりだっただろうか。

横浜に引っ越してからは、あちこちパンの美味しい店を探し歩いて買いだめしたりしていたのだが、ホームベーカリーも流行ってきたことだし、「作ってみれば」とあまり期待せずにカミさんに言ってみたら、ネットで調べて、家にあるオーブン電子レンジで作る方法を見つけてきて、試してみたら案外うまく行ったので、それ以来、手作りのパンが食卓に載るようになった。粉から作るので、全粒粉を選んで買っている。

昼食前に、遊びに行った先の川崎大師の参道で酒饅頭を買って、カミさんと半分に分けて食べた。

本格的なランチは、電車で川崎まで戻ってから、餃子で有名な成喜に行くことにした。


このあたりのことはまた別項のブログで記述したい。

磯子に帰ってくると、冷たい雨が強くなっている。

シンプルダイエットの記録はこっちに載せておいたほうがいいかな。

炭水化物がちょっと多いなと思うと体脂肪率がグッと上がるような気がする。

ちなみに目標体重を67kgにしているのは、BMI22がいいんじゃないかという程度の考えで、とくに深い意味はない。

でも、確かにレコーディング(記録)するようになると上下動はあるが「どんどん増える」ということがないような気がする。

このアプリは飲酒の記録もできるので、今後はこのあたりを意識するようにしようかな。

4/20 きょうの健康:1万歩達成したけれど…

日記としてまとめていたブログが長くなってきたので、テーマごとに分割することにした。興味がない部分を読まなくてもいいようにしたつもり。

「きょうの健康」では、エクササイズ関連や、散歩など、身体を動かしたことについての備忘録的なものになると思う。

健康グッズなどの体験レポは、別に項目を立てたいと考えてます。

土曜日ということで、きょうは休日気分を味わうべく近場の行ったことのないところへ出かけようと、朝食後に支度をして出かけたため、いつもの午前中のエクササイズはなし。

帰宅後、風呂に入る前に5分ほどの軽い筋トレをした。

昼間の外出で1万歩達成。